大阪市天王寺区には、日本で最初の陸軍墓地&近代日本の国立墓地の第1号である「真田山陸軍墓地」が残されている。このなかの墓銘碑を調べていくにつれて、さまざまなことが明らかになるとともに、歴史文化財としての保存運動に取り組んでいる。また、第2次大戦前の徴兵制の下、軍という組織が、兵士の死に際してどのように接し、扱ってきたかがわかり大変興味深いものとなっている。
1.建設の経緯
明治政府は、最初大阪で軍隊を作ろうとした。これは大村益次郎の構想=「大阪開平」の考え方のもと、
@政治と軍事は空間的に分離したほうがいいと考えた
A大阪の地の利=陸上・海上ともに日本の中心に位置する
という理由である。
1871年(明治4年)から次のような手順で、整備を進めはじめた。
@徴兵令を発した
A屯所が作られ始めた
B砲兵工廠
C幹部養成学校
D軍病院
明治4年4月10日に、日本で最初の陸軍墓地&近代日本の国立墓地の第1号を建設した。場所は、大阪城堀の南西、寺町のはずれ士屋敷と町人空間3社の境界線あたりに位置する上町台地の一角8497坪を確保した=公文書(資料)で確認。
当時は土葬で、座棺を使っていたので、墓地用地の必要面積は=1人1坪として、8000人以上のスペースを確保したことになる。
被葬者のうち、真田山陸軍墓地の最も古いのは、明治3年の陸軍学校生徒だった。
墓地内には、祭魂社=「招魂社」を設置しており、
●死体の埋葬
●霊の埋葬
という両面からサポートしていたことと想像される。
その後、全国各県に招魂社がつくられた。東京=靖国神社、各府県=護国神社の前身(原型)と位置づけられる。
なお、陸軍墓地が建設される前の、戊辰戦争のころは、その場所場所に埋葬していた。
その後、埋葬方法に関して次のような段階を経てきた。
1894年日清戦争 火葬して合葬する規則
1904年日露戦争 戦場掃除および戦死者埋葬規則制定、味方は火葬し、敵はその地に土葬する
1928年には、丘陵地を造成して平地にしたり、墓地・遺骨の大規模な整理・移転を行って、現在残されている景観の基本が形成された。
15年戦争など中国への進出や太平洋戦争の勃発などを経て、合葬形式の納骨堂がつくられるようになる。1943年8月に「仮忠霊堂」が完成して4万3,000余の遺骨を収蔵するようになった。
この忠霊塔に関して、1942年の初等教科書音楽に掲載されている忠霊塔の歌の楽譜をもとに、カセットで実演して聞かせていただい た。さらに戦況が悪化して、ガダルカナル敗戦に対応して、遺骨還送業務に関する件を通達をだした。これは、遺骨は帰ってこなくても、英霊は帰ってくるという趣旨で、箱内には「遺骨ありより英霊あり」と遺族に説明せよと命令が出された。
戦後になって、軍は解体され、真田山陸軍墓地は国有財産となった。最初は、GHQの指令で官庁がタッチしてはならないということで、市町村へ、その後団体が管理することになった。
しかし、全国の陸軍墓地の多くは管理団体などが霧散したケースが多く、真田山陸軍墓地は、唯一団体管理となっている(財団法人大阪靖国霊場維持会、現在は財団法人真田山陸軍墓地維持会)。
この墓地の研究をすることで、国民と軍、戦死者の関係を考えるうえで、象徴的な一面が現れているのではないか?
当初は手厚く葬った軍隊も、戦況が悪化した最後は、非常に粗末に扱われたことがわかる。
@墓標の形が定められていた
兵士の階級により墓域や墓石の広さ、大きさが細かく定められていた。
A日清・日露戦争以後から、火葬が始まった
火葬により、遺骨収蔵という形式となり、最後は合葬式となった。
<質疑応答>
●谷さん
大変感動した 末期がん患者と接しているとスピリット(魂)
人が死んだときに魂を祭ることの重要性を感じた
●鎌倉 野崎さん
硫黄島、スマトラ島、ミンダナオ島などからの300柱、南方遺骨収集した骨を、再燃焼し骨壷入れ、箱いれ
厚生労働省は、誠行社に依頼している
●上村さん
真田山墓地の墓碑を1つ1つ写してきた
墓銘碑
●柴田さん
1945年3月10日、東京大空襲に被災。深川で親類何日も探したが、何人も見つからなかった
その後、軍のトラックが来て、トタン板に載せて行ってしまった
以後、親類は盆の行事は熱心? これが民衆のこころの埋め合わせ?
(報告・書記 福田)
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