8月野外研修 島根県隠岐諸島 島後・カズラ島・海士町

 

はじめに

 近年、散骨や樹木葬や手元供養にみられるように遺骨をめぐる環境が多様化してきており、こうした関連会社も見られるようになった。よって、今年度の野外研修は、こうした多様化の一角を分析することを目的とし、株式会社カズラが運営している散骨が行われているカズラ島を視察し、散骨の現状と散骨と地域の関係について調査を行った。また墓地の視察や火葬場の視察を行い、隠岐諸島の葬儀・火葬の現状について調査を行った。

 

島後の葬儀の変遷

 島後では、64%の人が神道、36%の人が仏教を信仰している。現在、島後で、仏教が多く信仰されている地域は、漁師を営んでいる人が集中している旧西郷の地域であり、島内にある14軒の寺院のうち10軒が集中している。このあたりは、1869年(明治2)の廃仏毀釈の影響で、島内すべての寺が壊されたが、1879年(明治12)に港の周辺にあった寺院が復興した。上述のことから、島後では、神道が支持されていることから、葬儀も神道式が主流となっている。なお、葬法は、1998年(平成10)まで土葬が行われていたが、近年では大半が火葬されている。

 島後における葬儀の転換が最初に起きたのは、1997年ごろ(平成9)に、JAが葬祭業を開始したことによる。それまでは葬儀会社がなく、雑貨屋で葬具や仏具を販売しているところが2か所あった程度だった。よって、葬儀は、地域や氏子たちが地元の方法で、自宅で通夜や葬儀を行い、葬列を組んで出棺し、埋葬を行っていた。

2回目の転機は、島内に葬儀会館ができたことであった。2003年(平成15)に民間の葬儀会社が参入し葬儀会館ができたことと、2002年(平成14)に新しくなった火葬場の待合ホールを改装して葬儀を行えるようになってから、葬儀場所が自宅から葬儀会館や火葬場の葬儀場に短期間でシフトした。これにともなって、葬儀会社の利用が増加した。近年では、家族葬が少なからず施行されるようになった。これは、島外に子供が住み、親が島後に住んでいる等の理由がある。家族葬の場合、家族だけが葬列を組んで移動するが、その際、地域の人々は、故人の自宅の玄関先に集まって見送るという。このように、葬儀の場所がシフトした一方で、葬儀会館での会葬者数は、自宅葬と比較して減少している。これは、自宅葬のときは、地域の人が多く参列していたが、会館葬になると、家や地域の代表者が参列するためであり、ここに島後の特徴が見られる。

こうした島後の葬儀の現状を受けて、神社や寺院では、葬儀会社まかせの葬儀ではなく、自分たちで、葬儀のあり方を模索するようになり、従来の葬儀や地区ごとに異なっていた葬儀の方法を統一しつつ、時代に即した方法も取り入れていくという取り組みが行われている。

 

神道合祀墓 「おくつき」

西郷地区の共同墓地にある出雲大社西郷分院が運営している神道合祀墓 「おくつき」を出雲大社西郷分院宮司吉田均氏の案内で見学した。この合祀墓は、島外に住んでいる子供に迷惑をかけたくないという理由や子供がいない等の様々な理由で利用されている。写真1にあるように正面に墓地があり、右手には素屋が設置されている。素屋は、10年から20年ほど、墓石を設置する前に墓石代わりに設置する小屋であり、これが古くなったら墓石を立てるという目安にもなっている。この合祀墓では、夫婦のどちら一方が亡くなった場合、合祀するには、気持ちの切り替えがつかないという人や、自分が死ぬまでは合祀をせずに素屋に遺骨を置いておきたい人のために設置されたものであり、現時点では、3基の利用がある。(写真2)

 

 

 

 

 

 

カズラ島・遥拝所

 カズラ島での散骨と島の見学会等の運営は、株式会社カズラが行っている。カズラ島は写真3にあるように、緑に覆われた小島であり、周辺には、アワビやサザエの魚場がある。自然保護の観点からカズラ島に渡る時期は、原則5月と10月の2回のみとなっている。渡航時には、地元の人に船を依頼するようになっており、そのときだけ、島には簡易的な桟橋がかけられ上陸できるようになっている。また、これにあわせて、散骨場所にお参りする遺族もおり、多い人ですでに3回、カズラ島に来ている遺族もいるという。また、年間通して故人を偲べるよう、海士町側に遥拝所が設置されており、島を見渡せるようになっている。遥拝所には、散骨された人と生前予約をしている人のネームプレートがはいったボードが設置されている。そのほかには、焼香台とベンチがおかれているのみで、遺族が思いも思いの時間をすごせるようになっている。(写真4から写真6)

 海士町の漁港から5分程度でカズラ島に到着する。桟橋少し急な斜面を登っていくと、散骨場となる。(写真7、8)散骨は、遺骨をパウダー状にしたものを島内に撒く。費用は、隠岐島民22万円(生前予約15.4万円)、海士町20万円(生前予約は14万円)、一般28万円(生前予約19.6万円)の3種類に設定されている。現時点で、34名が散骨されており、このうち8名が海士町に隣接している西ノ島町の出身である。散骨が実施された初めのころは、遺族が指定されたエリアの中で思い思いに散骨していたが、現在では一人ひとりが使用できる区画(横1メートル、縦2メートル)が指定されている。(写真9、10)散骨を行うのは、遺族のみで、1人で来て散骨をする人や3人から4人くらいできて散骨を行う遺族もいる。

 散骨を行う人の動機は、様々であり、雑誌や新聞の切抜きを遺言で残しているケースや、インターネットで調べて、散骨を依頼するケース等がみられる。また、散骨場所が遠いことから、身体的な理由などにより、散骨の代行を株式会社カズラに依頼することもできる。そのときには、遺族から、遺骨を郵送してもらい、散骨までの全工程を記録し遺族に散骨をした証明を送るという手順になっている。葬儀会社が代行して、カズラ島の散骨に関わる手続きをすることはほとんどなく、直接、遺族が散骨を株式会社カズラに依頼することが多い。

 地元の人たちは、カズラ島で散骨が行われると聞いたときに、海に遺骨を撒くと思っており、風評や漁業への影響を心配していたが、島の中で散骨を行うという説明会を実施し、実際に上陸して散骨をみてもらった結果、比較的に好意的に受け止められている。また、株式会社カズラは、株式会社の形態をとりながらも、営利目的ではなく、隠岐で散骨をしたい人を手伝うことや、地域に散骨を理解してもらうことを徹底し行っている。そのため、行政と連携しつつ、散骨に来た人に地元のことを知ってもらおうという試みが行われており、観光事業と散骨が連携している。将来的にこの連携がどのように展開するのか動向を見守りたい。

 

海士町斎場

 海士町斎場は、1998年(平成102月に竣工した火葬場である。地元の人の利用が大半で、年間30件から40件の火葬、10数件の改葬を実施している。施設は、火葬炉1基、粉骨機1基、待合室となっている。火葬料金は、12歳の成人の場合、島内の住民は25,000円、島外の人は50,000円となっている。土葬からの改葬は、10,000円であり、粉骨は30,000円となっている。

火葬場に粉骨機が設置されているのは、カズラ島で散骨するために焼骨を砕くために使用されるためであり、これまで7件の利用があった。火葬の予約とかさならないように配慮されおり、基本的には利用者が少ない15時くらいから予約をいれている。粉骨の時間は、粉骨機に入れてから拾骨されるまでおおよそ30分程度を要する。(写真11から15)

 海士町には葬儀会社がないため、火葬場を利用する際には職員が霊柩車で遺体を自宅に引き取りに行く。斎場に到着すると、霊柩車は入り口に横付けされ、エントランス部分で棺を台車に移し変えられた後、告別・拾骨スペースに移動する。なお、炉前の告別は、棺は開けずに行われる。火葬に立ち会うのは、遺族や親族がおおよそ30名程度であり、場合によっては神主や住職が立ち会うことがある。火葬時間は拾骨の時間をふくめて、2時間から3時間程度である。告別・拾骨スペースに隣接して待合室が設置されているため、火葬をされている間、遺族は、家に帰らずに待っていることが多い。(写真16)

御波地区 共同墓地

 御波地区共同墓地は、地域の墓地であり、公的な管理者がおらず墓の総数は不明だが、中世以降の墓の形態が多く見られた墓地である。先祖の墓を合葬し1つの墓にまとめたものの、墓石はそのまま残しているという一族の墓所や他の地域への改葬が済んだ墓地のあともみられた。特に、墓石の原型とされている五輪塔が大量に山片付けられていたことから、かつては、五輪塔が主に使用されていた地域であることがうかがえた。(写真17から20)

 

後鳥羽上皇御火葬塚・隠岐神社

 承久の乱の後に隠岐へ流された後鳥羽上皇は、41歳から60歳までこの地ですごし生涯を閉じた。死亡後、住居であった源福寺の裏山にて火葬され、遺骨は近くの火葬塚に葬られた。江戸時代に神社スタイルの火葬塚が完成し島民たちによる祭祀も行われるようになったが、それまで、一部の遺骨を埋めたという伝承はあったという程度だったという。廃仏毀釈の後、1873年(明治6)に関西の水無瀬神社に遺骨を移したため、翌年取り壊されたが、山稜は現在も残っており、第82代後鳥羽御火葬塚として宮内庁の管轄になっている。(写真21)

 隠岐神社は、1940年(昭和14)に紀元2600年を祝うために島根県が建設した神社であり、後鳥羽上皇の火葬塚に隣接している。毎年414日と1014日に大例祭が開かれているが、このときには自治体関係者がすべて集まるという。なお、参道の脇にある桜並木は、島内一番の桜の名所として知られている。(写真22、23)

 

おわりに

 散骨は、一般的に海に遺骨を撒くというイメージを持たれやすいが、カズラ島の場合は、「カズラ島に見埋葬する」という言葉の通り、島内の自然の中に散骨する。そのため、@遺族にとっては、散骨した場所を特定しやすい、A地元の人々が、散骨にある程度の理解を示している、B行政のバックアップも見られ、町おこしと散骨が連動している点がカズラ島の特徴といえよう。

 現在、隠岐では、葬儀の転換期を迎えている。それは、地域や宗教者が主体となって、伝統的な葬儀を維持しつつ地域の実情に合った葬儀を模索するようになった点にみられる。今後、どのように隠岐の葬儀が変化と火葬が葬儀に及ぼした影響、及び散骨について、引き続き調査を進めていきたい。

以上

日 程

1日目】

 羽田空港第一ターミナル集合→伊丹空港着(関西からの参加者と合流)→隠岐空港着→島内観光→

 出雲大社西郷分院の吉田均宮司による墓地の案内及びお話→闘牛見学→懇親会→ホテル着

【2日目】

 ホテル出発→西郷港着→西郷港発→菱浦港→カズラ島視察(慰霊所・カズラ島上陸→昼食→定期観光→菱浦港発→海士町斎場視察・御波地区共同墓地視察→ホテル着

 

3日目】

 ホテル出発→崎漁港→定置網見学・水揚げ・荷造り・朝食→島内観光(後鳥羽院火葬塚・隠岐神社・海士町後鳥羽院資料館)→昼食→菱浦港発→西郷港着→隠岐空港発→大阪、東京にて解散

 

謝辞 

今回の研修にあたり、隠岐の島町、海士町の方々、また、島後の葬儀について教示くださった出雲大社西郷分院宮司吉田均氏に心より感謝申し上げます。また、カズラ島の見学及び現地の諸手配など、日本炉機工業株式会社の村川 英信社長、渡辺 俊則氏、斉藤 幸弘氏には、現地の手配などで、大変お世話になりました。心より感謝申し上げます。