「火 葬 部 会」 部会長 : 野崎二三子 氏
テーマ : 沖縄・台湾に見る、火葬がもたらした葬儀への影響
発 表 者
① 早稲田大学大学院 人間科学研究科 博士後期課程 須永真紀 氏
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② 浄土真宗本願寺派 教学伝道研究センター 常任研究員 多村至恩 氏
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開 催 日 時 : 平成23年1月20日(木)午後6 時30 分より
会 場: 東京文化会館 4 階 中会議室①
東京都台東区上野公園5-45(JR上野駅公園口正面、徒歩1 分)
TEL03-3828-2111(代) ホームページ http://www.t-bunka.jp
早稲田大学大学院 人間科学研究科 博士後期課程 須永 真紀
はじめに
現在、沖縄の火葬率は90%以上の割合を占めている。本土復帰後、短期的に火葬が普及し、現在では一般化された葬法となっている。その要因は、人々が、火葬は、きれいな骨=成仏した骨を生み出すということを広く認識したことによる。この結果、長い期間をかけて行われていた風葬・洗骨が、一気に短縮されるようになった。同時に、地域や門中が共同で行っていた儀礼から、葬儀業者の利用が増加し、葬儀の外部化が進んだ。本論では、沖縄の火葬が葬儀においてどのような影響を及ぼしたのかということについて考察を行うこととした。
1-1火葬導入以前の葬儀
・伝統的な葬儀の構成:1次葬:自宅から墓地までを葬列を組んで移動する野辺送り(ダビ)
*故人が死亡した当日に、できる限り、告別から埋葬を済ませる
ただし、夕方に死亡した場合などは、翌日に行われる
2次葬:洗骨を行い、骨甕に骨をおさめて改葬
・葬儀の流れ
故人の死亡の確認→裏座(クチャ)に移され西枕にして安置→逆水で清めた後、死装束に着替える
(5枚、7枚などの奇数枚を着せる)→仏壇のある二番座に移動(西枕で安置)
* この間、男性が座棺や位牌をこしらえる
* 枕飯などが備えられ、家族や身内の女性が座って泣く(泣き女も含む)
* 喪主は、一番座に座り、弔問を受ける
*葬儀が翌日になる場合は、夜伽(ユートゥジ)が行われる
2番座に蚊帳をはって、親族の女性が死者と添い寝をする
→線香をたやさず、猫がまたがないように注意を払う:死体が腐らないといわれているため
→念仏者を呼ぶ(または、身内のモノシリや村の長老が念仏を唱える)
→葬列を組んで出棺
・引き潮の時間を見計らって、出棺が行われる
・野辺送り(ダビ)が故人との別れの場とされていたため、儀礼的に実施。
・四つ辻や小川で休憩した後、故人に集落を最後に見せた後(シマ別れ)、一気に墓地に向かう
1-2葬法
・ 墓ができる前の埋葬:集落より離れた山や洞窟に遺棄
血縁などは、関係なく遺棄されていた→村全体の先祖神として拝まれる
・ 洗骨:死後3年目から7年目の間に実施
遺骨から、肉や衣服をふき取って白骨化の状態にする(泡盛などで洗う)
足から順番に骨甕に収められ、最後は、頭蓋骨を上にのせる
・墓地を所有している場合
シルヘラシと呼ばれるエリアに、棺を安置する→数年間、放置したのち、洗骨され甕におさめられる
→ 先祖が眠っている骨甕がある棚に安置される(改葬)
*寄合墓:集落全体で使用し、複数の家族が共同で利用(血縁関係がある場合とない場合がある)
*門中墓:父系の系譜を中心してつながる一族の墓地
現在では、分家した墓や家族単位の墓地が、増加している傾向
知らない身内と同じ墓地に入りたくないという考え→門中の解体・核家族化の影響
2-1現在の火葬の現状
・沖縄の火葬場件数:22件(地方公共団体17件、民法法人3件、その他2件、平成20年度現在)
・現在の葬儀の流れ
病院または自宅での死亡→自宅での通夜→火葬場に運ばれ火葬→告別式→納骨(当日に実施)
*当日に納骨が実施されるのは、死者は2度と家に帰らないとされている規範
* 本土復帰以後、遺骨との最終的な別れである告別式が重要視される傾向
→ 本土では、大正末期に葬列の衰退によって告別式が重要視される
↓
遺骨の白骨化の短縮:洗骨が火葬に置き換えられた結果、洗骨などによって納骨する期間が短縮
*野辺送りの省略、遺骨の別れの場として儀礼化した告別式が中心
・要因:著名人による葬儀の影響(新聞の死亡記事、口コミ)
対外的にみっともない葬儀にしたくないという喪家の要求
実際に、葬儀会社を利用した(参列した)人たちからの口コミ(主に便利性)
→ 葬儀会社の利用が増加
現在では、葬儀会館を利用した告別式が一般的
・行政による規制
死後24時間以内の火葬の禁止の規制→ 浸透するのに時間がかかる
1951年(昭和26)以降、沖縄では、死後24時間以内の火葬が禁止
その日のうちに火葬を要求する喪家が多かった
a.気候条件
b.遺体を死亡したその日のうちに処理しなければならないという認識
→死者を祀る儀礼の過程において、「伝統に依拠した」葬儀の手順が重視する姿勢
2-2火葬が浸透していった背景
・1951年(昭和26)大宜味村の火葬場設置運動
従来、洗骨を実際に行うのは、女性
・精神的な苦痛と非衛生的である洗骨をやめて火葬に切り替えていく運動
→大宜味村の宮里悦を中心とした婦人会が行う
*村の代議員の年配の男性たちが反対する
*はじめて大宜味村で火葬されたのは、年配の女性
↓
この結果、火葬場が設置され、以後、玉城村や読谷村でも、婦人会の火葬場設置運動が実施
火葬場が建設された。
・死んで焼かれるのはいやだと思いつつも、火葬によって、短時間で、きれいに白骨化されることが広く浸透する→洗骨と置き換えることに抵抗を示さなくなった=「遺体の浄化」
*洗骨を行うときの遺体の骨化の状態が、物故者の生前の評価や成仏の判断材料とされなくなる
→きれいな骨=成仏したという判断材料の1つ。
ただし、本当に成仏したのかということはユタに占ってもらう傾向
*火葬が選択されている調査
・火葬場のない沖縄県離島における葬法に対する住民の関心
この調査は、2000年に座間味村で、本土からの移住者などを除いた地元住民610名を対象に行われた調査である。調査方法は、訪問面接で行われた。有効回答数は、245人(回収率40.2%)だったと報告している。座間味村で行われた住民の意識調査によると、洗骨経験のある50歳代から80歳代は、火葬を支持しているという。しかし、洗骨経験がない20歳代から40歳代は「葬法の選択を容認する」という観点から洗骨を支持しながらも、自分の葬法には火葬を選択したという結果が報告されている
おわりに
沖縄では、故人が成仏したことを示す白骨化された骨の存在が重要であり、その考えは古来より変化していない。火葬が導入されて、遺体が白骨化するまでの期間や手順が大幅に短縮した。その結果、洗骨は火葬に置き換えられ、もともと儀礼的であった野辺送りが告別式に変化した。こうした変化は、短期的に行われる葬儀の中では画期的な変化であったが、長い期間、実施される民間信仰に基づく先祖祭祀中では、ほとんど影響が見られない。それは、対外的に行われる儀礼と家の中だけで行われる儀礼に区別されているからであり、この点に沖縄の火葬及び葬儀の特徴を見ることができると考える。
以 上
主要使用文献
尾崎 彩子「洗骨から火葬への移行に見られる生死観-沖縄県国頭郡大宜味村字喜如嘉の事例より-」
(日本民俗学会『日本民俗学 第207号』,1996年5月,P.58-P.83)
加藤 正春「火葬と沖縄の葬儀-火葬の導入による再編成とその外部化-」
(ノートルダム清心女子大学生活文化研究所『生活文化研究所年報17輯』,
平成16年3月, P.88-P.113)
酒井 卯作『琉球列島における死霊祭祀の構造』(弘文堂,1974年4月)
小熊 誠「風葬から火葬へ-沖縄における葬儀の変遷」
(アジア遊学『東アジアの死者の行方と葬儀』,2009年7月,P.64-P.73)
古謝 安子・宇座美代子・玉城 隆雄・小笹 美子・船附美奈子
「火葬場のない沖縄県離島における葬法に対する住民の関心」
(日本民族衛生学会『民族衛生 第69巻 第2号』,2003年3月,P.35‐P.46)P.44
(本願寺仏教音楽・儀礼研究所 常任研究員) 多村 至恩
はじめに
本発表は、埋葬文化から火葬文化へ移行期にある台湾を事例に、火葬の浸透背景から、葬儀文化との関連を読み解くものである。具体的には、台湾での火葬導入の概略とその後の展開を、報告者が行ったフィールドワーク(2007年2月)を中心に行う。
1. 台湾の民俗構成
台湾民俗は大別すると、漢族とオーストロネシア系の先住民族(12部族)によって構成されている。人口の9割以上を占める漢族に対し、主に山岳地帯や東海岸に居住する先住民族は、言語・文化・習俗によって分類されており、台湾では原住民と呼ばれ完全な社会的マイノリティーである(しかし近年、先住民族の権利開腹運動の影響から保護の対象となっている)。
人口の大半を占める漢族であるが、彼らが統一的な漢文化を継承しているわけではない。同じ漢族といえども、台湾流入過程の違いにより、多様な言語と文化を持った人々の複合体であり、長らく同一民族間での対立が絶えなかった歴史がある。そこに、台湾文化の複雑さがみてとれであろう。
漢族は、第二次世界大戦以前、既に台湾に入植していた「本省人」と、第二次世界大戦後、国民党(蒋介石)と共に入植した「外省人」に分類され、現在もこの区分は政治・経済的に大きな影響を与えている。
第二次世界大戦以前より台湾に居住していた本省人は、台湾漢民族の85%を占め、台湾語を話すことが特徴である。一方、北京語を話す外省人は13%にすぎないが、台湾の政治・経済界の中心に君臨し、国民党政権下では長らく本省人を弾圧してきた経緯がある。
また、台湾政治大学が行なった住民の社会意識調査では、「自分は中国人である」と認識している人が、1991年の26%から2001年には10%に減少している。また、反対に「自分は台湾人」と認識する人が20%から48%に増えていると報告されている[1]。この数字の変化は、今後、台湾独自の宗教観が形成される可能性を大きく示唆するものである。
2. 父系出自集団である漢族と儀礼の関係
父系出自集団である漢族では、男系の一人の先祖を格とし、その先祖と成員が明確な系譜により相互認識されている集団である。この先祖と成員の明確な系譜認識は「位牌」であり、位牌を奉る「祖廟」を中心に集団全体の通過儀礼が行われている。祖廟を集団の共通財産として認め、婚姻や葬送などの儀礼が家族単位ではなく、集団の共通儀礼として行なわれることは、集団の一体感と結束力、成員としての認識が高められるという儀礼効果がある。
五十嵐[2]によれば、集団が一つの村落や集落を形成するほど大規模に拡大した場合、経済的・政治的な力を有する者が組織の中核を担う先祖祭祀を取り仕切るようになり、それを契機として分節が発生するとしている。また、分節化およびその統合は、先祖祭祀が重要なポイントとなっていることも併せて指摘している。
ここに、宗教儀礼を中心とした社会構造の変化と社会的影響を見ることができる。すなわち、同じ儀礼を行なう者を同属と見なす儀礼の特性を利用し、政治的・経済的有力者が自らの地位確立、あるいは地位保持のために儀礼を利用するということである。このことは、古くから世代交代の象徴として葬送儀礼が担ってきた役割の一つであり、大規模になればなるほど、本来は儀礼のメタファーであるメッセージが表面化するのである。
3. 台湾の宗教状況
台湾の宗教状況とは、すなわち社会的マジョリティーである漢族のそれである。台湾の寺廟に祭られている神々の大半は、道教と仏教を起源とするものであるが、日本のような単一の宗教倫理に基づく寺廟ではなく、複数の神々が同座する漢族独自の土着的なものであり、道教・仏教・儒教の宗教倫理に現世利益が加わった民間信仰といっても過言ではない。また、それらに加え、漢族の人々が日常的な問題を相談する道士(道教)やシャーマン(童乩・通霊など)の存在も大きく、「漢族の約50%が日常的になんらかの宗教儀礼に関与している」という統計の所以となっている。
4. 漢族の葬送儀礼
漢族の行なう葬送儀礼に、仏式・道教式という概念はない。死の直後から行なう儀礼は、主に道士によって勤められ、また埋葬の日時は風水師によって選定される。唯一、日本人的スケールに合わせるとするならば、読経を道士が行なうか僧侶が行なうかの違いにすぎない。したがって、漢族の葬送儀礼とは、シンクレティズムによって成立したオリジナルのものである(詳細は別紙参照のこと)。
また、埋葬までに数十日(約1ヶ月~3ヶ月)を有し、次第に腐敗していく遺体を中心に行われる儀礼は、手厚く葬る(厚葬)ことによって、共同体が災難から逃れ、幸福を招くと考えられていた。したがって、葬送儀礼などの宗教儀礼を執行するものが、共同体で重要な役割を担うようになるのである。
5. 火葬導入の契機
元来、埋葬文化であった台湾に火葬を導入したのは、台湾統治を行なっていた日本である。1895(明治28)年から1945(昭和20)年まで台湾を統治していた大日本帝国は、日清戦争が勃発した1937年より皇民化運動(台湾人の日本人化)を推進する。その過程の一つとして、火葬を含めた葬法の改善が行なわれた。特に、火葬の導入は衛生上の問題が大きく関与しており、また葬法の内地化(日本化)は、伝統的な葬送儀礼を迷信(風水)にまつわる前近代的なものと位置付け切り捨てるものであった。また、この葬送儀礼の内地化に際して、日本仏教界が積極的に関与していたことが、現在にみる日本式火葬場の発達に深く関与していると考えられる。
皇民化運動によって強制された内地式の葬送儀礼であったが、一方で、従来の伝統的な葬法を前近代的な遺物と見做す台湾人もいた。高度な近代教育を受けた彼らは、従来の葬法を台湾の近代化を阻むものという認識を示し、自らは伝統色・宗教色を配した質素な“大衆葬”を行なうが、結果として台湾社会には浸透しなかった。
6. 現在の葬送儀礼
大日本帝国の崩壊と共に、台湾は政治的・経済的・文化的に日本から分離することとなった。しかしながら、こと葬送儀礼に関しては、完全に伝統回帰とはいかなかったようである。かつては、風水に基づき指定された日時に土葬を行い、数年後に拾骨された遺骨は、門中墓や亀甲墓とよばれる巨大な一族の墓に納められた。しかし、衛生上の問題から火葬が奨励されると同時に、土地不足と景観の問題から、共同墓地あるいは納骨堂(仏教)が都市部を中心に普及し始める。特に火葬は、1989年以降、火葬費用は課税対象から全額免除となったことから、一気に普及率が高まり、70年代に30%であった火葬率は、2009年には89.11%と報告(内政府調べ)されている。
現在、都市部では自宅葬が激減し、市立の濱殯館(葬儀会館)の使用が一般的である。その理由として、①住宅環境の変化(特に、都市部では日本同様マンションが多い)、②充実した施設(湯灌、エンバーミング、冷凍庫、葬儀場、火化など)、③「宗親会」(近所に住む同じ姓を名乗る人々の集団)から葬祭業者への移行、が上げられる。
上記の理由から、風水上一週間から最大で49日間かかるというわる葬儀は、都市部ではもはや濱殯館(葬儀会館)が中心となっている(現在地方に僅かに残る葬法も、いずれ都市化していくものと思われる)。以下は、報告者が2007年に台北市立第一濱殯館[3]で行なった調査を中心にまとめたものである。
人が亡くなると、死亡診断書を持って役所へ死亡手続きを行なう。また、葬祭業者へ葬儀の手配
を行なう。遺体を濱殯館に搬送すると、施設内にて湯灌・防腐処理・寿衣が行なわれ、葬儀当日ま
で冷凍保存される。葬儀までの期間、施設内の礼堂にて祭壇が設営される。供え物は、冥土で用い
るとされる紙銭や服、車や家から携帯電話やパソコンなど、紙で作られた日常品と花が中心である。
また、道教式の場合は、七日毎に道士を招いて供養してもらい、服喪の最終日に遺体を冷蔵庫から
棺に納め、葬儀を行なう。火葬後、供物は全て焼かれ故人の霊に奉げられる。
死亡した日から、七日毎の中陰の追善供養や一周忌・三回忌・七回忌・十三回忌の供養は、日本と同様に喪家や寺院にて僧侶を招いて営まれる。
おわりに
台湾では皇民化運動の一環として、火葬の導入と葬法の内地化が義務付けられた。葬法の変更は、アイデンティティーそのものを日本人化させる契機として考えられたからである。その後、第二次世界大戦の終結と同時に、日本から解放された台湾には植民地以前の習俗に戻るチャンスがあったにもかかわらず、日本植民地時代を継承する施策を選択した。その背景には、①衛生の問題、②土地・景観の問題、③近代化の促進、が挙げられる。特に近代化の促進は、火葬による時間と労力、経費の削減を推進する格好の建前となっている。
現在の火葬システムの大半は、日本法式で行なわれている。しかし一方で、「面子」にこだわる漢族意識も健在であり、合理的な火葬・納骨法を選択すると同時に、儀礼的には非合理的な旧来のものを踏襲する傾向にあるのも事実である。
現時点の台湾は、宗教的に未分化な状態であり、独自のシンクレティズムが結果として、儀礼的には厚葬へと向かわせていると考えられる。ここから、火葬や埋葬といった葬法(システムの合理化)と、そこにまつわる宗教儀礼(宗教観)は別の次元で展開しているということが指摘できよう。他方で、近代化と共に社会全体に合理主義が蔓延すると、現在の日本のように、宗教儀礼までもが合理化の対象となり薄葬へと向かう可能性があることを、併せて指摘するものである
参考文献
五十嵐真子 2006 『現代台湾宗教の諸相-台湾漢族に関する文化人類学的研究―』人文書院
尤銘煌 2005 『日本と台湾における通過儀礼の比較研究―葬送儀礼を中心に:社会額的分析―』
太陽書房
胎中千鶴 2008 『葬儀の植民地社会史―帝国日本と台湾の<近代>』風響社
松濤弘道 2010 『改訂増補 世界葬祭辞典』雄山閣