日本葬送文化学会

3 月 懇 談 会 

日時:平成16年3月26日 場所:東京文化会館4F

 

『女性会員による個人発表会』

 

3月は年度の最終回となります。今回は年間のテーマとは別に、2人の会員から

日頃思っていることや自主的に検証したことを事を発表していただきました。

 

テーマ@

「万葉集にみる死と葬送」

講師ー褐O風社 取締役 三橋初枝 氏 (当会会員 常任理事)

(講師紹介)三橋氏は本業を編集や出版等でご活躍されている関係から、当学会の解放編集委員としてご尽力をいただいておりま

                 す。今回は、古人(いにしえびと)の死や葬送に対する思索を古典を通じてお話いただきました。

 

万葉挽歌をよむ

■万葉集とは

全20巻 約4500首 (長歌265首、短歌4207首ほか)

成立760年前後 629年頃〜759年頃の約130年の間に約4500首の歌が成立した

代表歌人ー額田王、柿本人麻呂、山部赤人、大伴旅人、山上憶良、大伴家持など

編者ー大伴家持

■挽歌とは

人を葬る時に柩を挽く者がうたう歌(中国「文選」)

葬送の歌、病中・臨終の作、死者追慕など死にまつわる歌

■挽歌の内容分類

○自己の死に関する歌

○他人の死に関する歌ーーー○死者の縁者を慰める歌

                    ○死者を悼む歌ーーーーー○近親者を悼む歌

                                      ○自己と縁のない人を悼む歌ーーー○路傍の死者を悼む歌

                                                              ○伝説上の主人公を悼む歌

■挽歌の展開

○王位継承に重要な葬送儀礼

○集団の共通感情、共通意志を代弁

○初期宮廷挽歌・・・天智天皇挽歌群、天武天皇挽歌群

○殯宮挽歌・・・日並皇子殯宮挽歌、高市皇子殯宮挽歌、明日香皇女殯宮挽歌

○亡妻挽歌などの抒情挽歌

 

■有間皇子(ありまのみこ)自ら傷(いたみ)て松の枝を結べる歌

●岩代(いわしろ)の浜松が枝を引き結びま幸(さき)くあらばまたかへり見む

〔現代語訳〕岩代の浜の松の結んで、もし無事であったなら、ふたたびこの結び松を見よう。

●家にあれば笥(け)に盛る飯(いひ)を草枕旅にしあらば椎の葉に盛る

〔現代語訳〕家にいたら器に盛って食べるご飯なのに、草を枕とする旅の身なので、椎の葉に盛ることだ。

有間皇子は考徳天皇の一人子。岩代は和歌山県日高郡南部町。斉明4年(688年)謀反を企てたとして捕らえられ、11月9日紀州牟婁(白浜)へ護送された時の歌。中大兄皇子から訊問を受けた後、11日帰路の藤白坂(海南市)で絞殺された。19歳での悲劇的な死。松を結ぶのは旅の安全を祈る習俗。

 

■◇大津皇子(おおつのみこ)被死(みまか)らしめらゆる時磐余(いはれ)の池のつつみにして涙を流してつくりましし御歌

 ●ももづたふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ

〔現代語訳〕磐余の池に鳴いている鴨を今日見るのを最後として、この世を去っていくことだろう。

大津皇子は天武天皇の第3子。母は天智天皇の皇女であり、天武帝の后(持統女帝)の姉。文武両道に傑出し、豪放磊落な性格で人望があった。朱鳥元年(686)9月9日天武帝崩御の後、まもなく謀反の首謀者として捕らえられ10月3日に処刑された。24歳。「ももづたふ(百伝ふ)」は50-80-100と無限に伝いゆく意で磐余の枕詞以上に、「今日のみ」のはかなさと対比して響く。「磐余の池」は大和桜井市にあったといわれている。「雲隠る」は貴人が死ぬことを遠まわしに言った表現。

◇大津皇子薨りましし後、大来皇女(おおくのひめみこ)伊勢の斉宮より京に上る時よみませる歌

 ●神風の伊勢の国にもあらましをなにしか来けむ君もあらなくに

〔現代語訳〕神風の吹く伊勢の国にそのままいればよかったのに、なぜ都へ来てしまったのだろう。もうあなたは亡くなられて都にもいないのに。

姉である大来皇女は、伊勢に斉宮として遣わされていた。任をとかれて大和に帰ったのは弟の死から1ヶ月半後。喜ばしいはずの帰郷が一層の悲しみに。やり場のない傷心。

◇大津皇子の屍(かばね)を葛城(かづらぎ)の二上山(ふたかみやま)に移し葬(はふ)りし時に、大来皇女の哀しび傷みて作りませる歌

 ●うつそみの人にあるわれや明日よりは二上山を兄弟(いろせ)とわが見む

〔現代語訳〕現世の人である私は明日から二上山を弟の君と思って見ていこう。

二上山は大和と河内との間に位置する。雌雄二峯に分かれており、雄岳の頂上に大津皇子の墓所と伝えられる所がある。処刑された皇子の霊を避けるために、人の行かない山頂に葬ったと言う説、祟りをおそれ聖山の頂きに手厚く葬り、奥つ城とふもとの参り墓という両墓制をとったという説、またこれは明治以降に定められたもので山麓のどこかに眠るという説もある。

 

■挽歌で代表的な歌

天智天皇挽歌群

◇天皇の聖身不豫(みたまひ)したまふ時に大后の奉る御歌(病気になった時)

●天の原ふりさけみれば大王(おおきみ)の御寿は長く天足(あまた)らしたり

〔現代語訳〕広々とした空をふり仰いで見ると、天皇の命は天空に満ちあふれている。

天智10年(671)9月天智天皇は病気になり、わずか3ヶ月で亡くなった。病気快復を祈りこのような寿歌ともいえる歌を献上した。こうあってほしいと願う心の呪術的表現。個人的な感情ではなく、儀礼的な場における歌と考えられている。大后は、中大兄皇子(天智天皇)に殺された、兄である古人大皇子の娘で倭大后と呼ばれる。

◇一書に曰く近江天皇(あふみのすめらみこと)の聖身不豫したまひて、御病急かなる時に大后の奉る歌(亡くなった時)

●青旗の木幡の上を通ふとは目には見れどもただに会はぬかも

〔現代語訳〕木幡の地の上をた大君の魂が通っていることはめには見えますけれども、直接にお会いすることはできません。

不明の点が多い歌。木幡は宇治市北部で、ゆかりの地と解される。天皇の魂が身体を抜け出して大和に向かっていたのか。危篤の時というより臨終、死後の歌ではないかと言われる。「目に見る」は幻視でもよくそこに呪術的性格をはらんでいる。「直に会ふ」は身体が接するくらいの意味。「青旗の木幡」は葬具の青い旗という説もある。

◇天皇崩(かむあが)りましし時に倭大后(やまとのおほきさき)の作りませる御歌

●人はよし思ひやむとも玉鬘(たまかづら)影に見えつつ忘らえぬかも

〔現代語訳〕人は思いあきらめてしまっても、私は天皇の面影がうかんできて忘れることができません。

前の2首に比べ妻としての悲しみが歌われている。

◇天皇崩りましし時に婦人(をみなめ)の作れる歌

●うつせみし 神にかん堪(あ)へねば さかり居て 朝嘆く君 さかり居て わが恋ふる君 玉ならば 手に巻き持ちて 

 衣(きぬ)ならば 脱く時もなく わが恋ふる 君ぞ昨夜(きぞよ) 夢(いめ)に見えつる

◇天皇の大殯の時の歌 額田 王(ぬかだのおおきみ)の歌

●かからむとかねて知りせば大御船泊(おほみふねは)して泊(とまり)に標結(しめゆ)はましを

〔現代語訳〕このようなことになると知っていたならば港に注連縄を張り、天皇を乗せた船が出て行かないようにしたでしょうに

宮が営まれているときの歌で儀礼的要素が強い。棺あるいは宮を船に見立てて、その出港を阻止すれば死をとどめられたとの仮想をうたっている

◇山科御陵(やましなのみささぎ)より退散(あらけまか)りし時に額田 王のつくれる歌

●やすみしし わご大王の かしこきや 御陵(みはか)仕ふる 山科の鏡の山に 

 夜はも 夜のことごと 昼はも 日のことごと 音(ね)のみを 泣きつつありてや もものきし 大宮人は 去(ゆ)き別れなむ

殯宮での儀礼が終わり陵墓に埋葬されると墓前での弔いが行なわれる。それも終わりに近づいた様子。「山科の鏡の山」は天智天皇の山科御陵(京都市山科区)夜を先にいうのは、日没を1日の始めとする考え方があったとする説が有力だが、墓前での祭儀が夜始まったからではないかともいわれている。

 

■殯宮挽歌

◇日並皇子尊(ひなみしのみこのみこと)殯宮(あらきのみや)の時柿本朝臣人麿(かきのもとのあそんひとまろ)の作れる歌一首に併せて短歌

●天地の(あめつちの) 初めの時 ひさかたの 天の(あまの)河原に 八百万(やほよろづ) 千万(ちよろづ)神の 神集ひ

 集ひいまして 神計り はかりし時に 天照らす 日女(ひるめ)の尊(みこと) 天をば 知らしめすと 葦原の 瑞穂の国を 天地の

 寄り合ひの極み 知らしめす 神の命(みこと)と 天雲の 八重かき分けて 神下(かむくだ)し いませまつりし 高てらす

 日の皇子は 飛ぶ鳥の 浄(きよみ)の宮に 神ながら 太敷(ふとし)きまして 天皇の 敷きます国と 天の原 

 石門(いはと)を開き 神上り あがりいましぬ わが大王 皇子の命の 天の下 知らしめせば 春の花 貴(たふと)からむと

 望月の 満(たた)はしけむと 天の下 四方(よも)の人の 大船の 思ひ頼みて 天つ水 仰ぎて待つに いかさまに 

 思ほしめせか 由縁(つれ)もなき 真弓の丘に 宮柱 太敷きいまし みあらかを 高知りまして 朝ごとに 御言(みこと)問はさず

 日月(ひつき)の まねくなりぬる そこゆゑに 皇子の宮人 行方知らずも

◇反歌2首

●ひさかたの天(あま)見るごとく仰ぎ見し皇子の御門の荒れまく惜しも

●あかねさす日は照らせれどぬばたまの夜渡る月の隠らく惜しも

日並皇子は草壁皇子ともいい1天武天皇と持統天皇の一人子で早くに皇太子になり即位が期待されていたが、689年28歳で亡くなられた。天武帝の死から3年もたっておらず、天武帝の殯宮儀礼が終わって5ヶ月後のことであった。

 

テーマA

「私の葬送への想い」ー火葬場経営を通してー 付帯資料:日本の将来推計人口(国立社会保障・人口問題研究所発行)

講師ー叶ス行社 専務取締役 野崎二三子 氏 (当会会員 常任理事 監査)

(講師紹介)「小坪の火葬場」で有名な誠行社の経営者であります。これまでの長い業務を通じて、庶民・生活者の葬送意識の移相を直接肌で感じておられます。

        それを踏まえてご自身なりの葬送への想いを語っていただきました。

 

近年誠行社さんの火葬場の控え室の利用は、55人部屋 35〜45人部屋 15〜25人部屋とあるなかで 15〜25人部屋が最も利用がある。

昔は社葬等でなくても 55人以上の控え室の利用が半数以上であった。

この事から考えられるのは近年では葬儀への会葬者が減っている。

これから未来に向かって葬儀の形はどのようになっていくのだろうか?心配。

■資料、日本の将来推計人口を基に

○総人口の推移

2000年1億2693万人ー2006年1億2774万人(ピーク)−2013年ほぼ2000年の人口に戻るー2050年1億60万人

ピークの2006年から2050年を比べると2714万人の人口が減る

○年齢3区分別人口の推移

※年少(0〜14歳)

1980年2700万人ー2000年1815万人 885万人の減少(国勢調査)

2003年1700万人台ー2016年1600万人台ー2050年1084万人台まで減少すると予測される。

※生産年齢(15歳〜64歳)

1995年8717万人ー2000年8638万人 5年間で79万人減

1995年8717万人ー2030年7000万人ー2050年5389万人 55年間で3328万人の減

※老年(65歳以上)

2004年2200万人ー2018年3417万人ー2050年3586万人 46年間で1386万人の増

■資料:今後の葬儀のあり方について 全葬連「葬儀に関するアンケート」より

家族に負担をかけない様簡素な葬儀がよい 50.8%

順送りなので残る家族に任せてよい 22.2%

家族だけの葬儀でよく、形式的な通夜や葬儀は必要ない 18%

人生最後のセレモニーなので故人の意志を反映した葬儀になると思う 12.9%

地域のしきたりに従うのがよい 3.6%

葬儀も墓も不要と思う 2.7%

■資料:葬儀の印象 全葬連「葬儀に関するアンケート」より

形式的になりすぎている 50.2%

不要なものが多すぎる 34.9%

もっと質素にしたほうがいい34.1%

世間体や見栄にこだわりすぎている33%

適当だと思う29.5%

派手すぎる8.2%

もっと厳粛にしたほうがいい6.4%

もっと派手にしたほうがいい0.2%

 

上記の事で

誰が親を見るか分からない時代になる。

自分のことは自分でという老人が増加する。

家族に負担はかけられない、かけたくないので必要最低限の葬儀で済ませてほしいという考え方が多くなる。

将来の葬儀社が心配だ・。

とくに大きい借り入れのある葬儀社。

葬儀料金の低価格化が進み借金を返せなくなる。

どうすればようか?

お客様と繋がりを持つことが重要。→社員の意識向上→感動を与える接客→社員が会社を守る→愛社精神

先を見据えた経営最も必要。

 

葬儀が形式的になっているのは葬儀社のせいである。

葬儀の意味を何事にも深く追求しない。

もっと勉強すべきである。

葬儀の意味を突き詰め葬家に説明すべきである。

このことが将来の仕事に通じることである。