日本葬送文化学会  7月定例会(講演会)

日 時 平成15年7月19日 土曜日 午後6時30分〜8時30分
場 所 財団法人 東京都歴史文化財団 東京文化会館 4階 大会議室

テーマ
『葬儀に赤飯は常識?―葬儀と食物の関わり―』    
        

講師 板橋春夫氏

講師略歴
1954年群馬県生まれ。1976年 國學院大学卒業。
現在 伊勢崎市職員。教育委員会文化財保護課 課長補佐。
日本民俗学会理事、國學院大学兼任講師 専攻は日本民俗学。
2001年11月 国立歴史民俗博物館第36回歴博フォーラム
「民俗の変容 葬儀と墓の行方」参画。

主な業績
「群馬の暮らし歳時記」(上毛新聞社 1988)
「葬式と赤飯―民俗文化を読む」(煥乎堂 1995)

(今回は当会会員 理事 山田慎也氏のご紹介を得て年間テーマを踏まえたなかで、
お葬式の『食』にまつわるお話しを承ることになりました。)


 
私の故郷、群馬は養蚕の県。養蚕の仕事をしようと思っていた。
蚕室の藁(ワラ)は葬儀で使った草鞋(ワラジ)を使うとあたる(成功する)といわれている。
こんなところにも葬送と生活の接点があるとふと思い出しました。

「人の一生」という本の夜の部を担当した。
近世(江戸時代)の文書を調べていて、行器をホカイと読むことは知っていたが、
葬儀と赤飯のことを再認識した。

昭和40年代に聞いた言葉に「長生きしたら(葬儀で)赤飯だよな」がある。
結論から言えば、「葬儀に赤飯を食べることは常識である」

高齢まで生きたということが目出度いことなので赤飯を使うという考え方もある。

文化庁の調査で全国の10%で赤飯を葬儀で使用していたことがわかった。
(1366箇所中、151箇所)

明治時代の外国人の記録に、葬儀のあと、コジキ・ホカイ人に食物を与えて供養としたというものがある。

食べる時期にこだわると3つに分類することができる
@通夜(当日)
A初七日(四十九日)
B最終年忌(三十三年が多い)

大雑把に言えば@は東日本、ABは西日本といえる。
ただしBは岐阜と沖縄にしかサンプルはなく、
沖縄はお祝い事と認識しているようだ。

柳田国男の「稲の日本史」に照らすと@とBが柳田説と合致する。

衣類の色について
石川県の白山のふもと、シラミネ村で全員白装束で並んだ葬儀写真をみた。
葬式を白で行う例は全国に多数あった。

第二次世界大戦で葬儀は黒が一般という常識が作られたようだ。
戦死者が多数出て、合同葬による集会で各地の葬儀が比較される機会となったため。
この時期に白装束が衰退し、黒色が葬儀の色という全国共通の認識が作られた。
そのとき、赤飯が赤いということが良いのだろうかと考えるようになったのではないか。
赤飯に黒豆を北陸では使う。祝いの飯ではないというサインにしているようだ。

神道系や北陸の真宗の国では赤飯が禁止されてきたようだ。

各地で、赤飯から饅頭へ変わっていった。
饅頭は自宅では作れないので、お金をだして購入することになる。
明治、大正の貨幣経済化で手作りの赤飯から、買ってくる饅頭に変わった。
また、高価で分けやすいのも良かった。

近親者が赤飯を作り持ち寄りふるまうことは、ケガレの見地からはどう説明するのか。
近親者のケガレや忌みを分散する目的ではなさそうだ。
そうではなくて、葬儀に挑む前に力をつけるのが目的という説を支持する。
忌み負けしないようにする。

ハレの日、ケの日、で言えば葬儀も結婚式もハレの日であり、特別の日という点では同じであり、
通過儀礼に供する赤飯を食べて当然であるといえる。

長寿銭
百歳以上で亡くなった時、100円か500円を袋に一個入れ配る。
これをとっておくと、または身に付けておくと縁起が良いと言われる。
秩父地方ではまだ80歳代で亡くなった場合でも配っているが、
群馬では100歳台でなくては配らない。
昭和30年代では80歳代まで生きるのが大変な長寿であったが、
現在は100歳も珍しくなくなってきた。30年間で常識が変わった例である。

   左:公演中の板橋氏  右:長寿銭の実物を紹介