日本葬送文化学会
10月懇談会           平成14年10月28日18:00〜

                                     於:東京文化会館

テーマ「山陰の葬送文化を訪ねて・・野外研修報告」

鳥取県西伯郡名和町町営火葬場・鳥取県出雲市  出雲大社  関係等

                    パネラー :  天野氏、杉山氏、杉浦氏

                                                    東京文化会館 登録ナンバー 03175

本年度の伏線テーマ、「病院における死」からこれまでいろいろな活動がなされ、各付帯する施設やその運用また社会における事前の葬送思考を喚起する活動などを敷設する傾向などを取り上げてきた。野外研修では都市周辺から離れ、地方においての葬送環境をもう一度検証することで、現代葬儀に基層的な機能意識を与えている習俗や風習の原点を見出すことが出来るのではないかと思う。ともすれば私達は特に首都圏のみならず大都市周辺を中心に葬送文化を語ることを平常にしていることもあり、今回の野外研修は今一度原点的な葬送のあり方を再考するきっかけになったようだ。研修参加者各位からの私見を交えた報告から、死の取り扱いについての意味をあらためて考えていきたい。               

天野氏より・・

昭和25〜35年時代、葬儀料金が低い地方であった。現在でも他の地域と比べても安い。

54万ほどで葬儀を施行している。値上げも土地柄難しい。

当時は葬儀社は2社ほどしかなかった。それは、儲からないということで、やらなかったのであろう。松江の仕事の70%を葬仙さん(葬祭業者)は施行している。松江、出雲などで5,60万の人口である。

葬具としては手間のかかるものも使われる。昔ながらの慣習を今も引き継いでいる。

七本塔婆を立てるのは、七日ごとに墓地に持っていき供養していく。または塔婆を立てることが一つの封印儀礼を示すということもある。また七本を一度に供え、七日ごとに一本づつはずしていくというところもある。(二村氏談)

杉山氏より・・(火葬場について)

明るい墓地である。よく花が飾っていたということからも、とても信心深い土地柄である。

建物(火葬場)はブロックで造ってある。比較的中も明るい。情緒があった。釜は1基のみ。年に15件程使用している(月一件ほど)。当番制で火を付ける。告別までは、行うが火葬は今年で廃止するという。とても良い情緒があるだけに勿体無い気もする。(会員多数の意件有)地元の方から愛着を持っている設備である。

送風機を使い煙を煙突から出すということだが、どこに送風機を付けたのか知りたかった。10m程の煙突の高さが必要ではないかと思うのだが・・・。

料金は8000円 3.5時間の火葬時間がかかる(夕方終える)翌朝集骨する。バーナーを使用しているが火力が弱い、野焼きのような感じである。告別式は60名〜80名位で行うのが一般的。古くから町に住んでいる方が使用するだけで、新しい方は新しい火葬場に行くようである。

集落は浄土真宗がほとんどである。日没という時間帯を取り入れて儀式を行う。土着習俗を感じた。(二村氏談)

杉浦氏より・・(出雲大社について)

“すもうあしこし”「す」 すずき、「も」 もろげえび、「う」 うなぎ、「あ」 あまさぎ、「し」 しじみ、「こ」 こい、「し」 しらうお。

海蛇を、出雲大社に持って行くとお金をもらえる。通常家庭の神棚は伊勢神宮のである。

出雲大社の入り口にある岩は“君が代”の歌になった。〜さざれ石のいわおとなりて〜。

死の旅路の出発点ということであったのではないかと。

現在出雲大社が建っている場所は、島根半島の西側に位置していますが、ここは元々島であった所だそうです。出雲国風土記の神話伝説によりますと、八束水臣津野命(やつかみずおみつぬのみこと)が、出雲の国はいかにも小さいとのことで、海の彼方から陸を引っ張って来たと言われています。大社のある半島の西側部分から日御碕(ひのみさき)は、遠く朝鮮半島の新羅の岬を切り取って引いてきて、動かないように立てた杭が石見と出雲の国ざかいにある三瓶山で、引き綱は長浜の海岸となった。島根半島の東部分の美保の岬や松江辺りは、北陸から引いてきて、伯耆大山(ほうきだいせん)に繋ぎ、そのもやいは夜見ガ浜(現在の弓ヶ浜)となりました。

 そもそも出雲大社の成り始めは、大和国編纂の古事記、日本書紀によると、天照大神に対し、出雲の大国主命が、国を譲る代わりに立派な神殿を建てて祀って欲しいとの願いから発したとされています。大和国から見て出雲大社は日出ずる所ですが、出雲は日の沈む方角に位置しています。記・紀によりますと、いかにも出雲の国が禅譲されたのごとく、記されていますが、実際は権謀術数の限りをつくして半ば強引に奪ったと思われます。そこで「大国」と称されるくらいに重要な国の主を憤死させてしまった負い目と恐れから、この怨念の霊魂を極めて厳重に封じ込め、一方尊崇の気持ちを大仰に示すことによって出雲の国人の心を鎮める効果を狙ったのかも知れません。ですから出雲大社は何もかも異端な感じがします。

通常私たちが家庭に祀る神棚は、殆ど神明造りといって屋根の勾配がこちらを向いております。出雲大社では屋根の切妻の側が正面となります。檜皮葺の大屋根の天辺には、勝男木(鰹木)は三本。伊勢神宮の内宮は十本ですが、この意味するところは私も知りません。

屋根の稜線の延長が交差する千木は、先端が天に向かって切っ先鋭くカットされている。天照大神を祀る伊勢の内宮では、千木の先端は大地に水平にカットされているので、出雲大社は男千木と言われているようです。現在の千木の高さは24メートルと言われますが、太古には4倍の高さを誇っていたと伝承されています。

御魂を封じ込める注連縄(しめなわ)も、怨念の大きさにふさわしいくらい、巨大な物で、左右が細く、中央が極端に太くなっています。普通注連縄の綯い始めは神殿に向かって右側に位置するように飾りますが、ここでは逆に左側になっています。つまり大社は向かって左側が上席になっているのです。これは、端垣の内側に大社の脇社の配置に因を発しているとのことです。本殿の左側に筑紫の社、右側に御向の社及び天前の社が配されています。御向の社には、最初の妃と思われるすせりひめの命が祀られ、左はたぎりひめの命で宗像族の一族、北九州の宗像大社にも祀られております。それで筑紫様と親しみを込めて呼ばれているが、大国主神の何番目かの妃にあたると思われるので、ここにも後世の都合が見え隠れしているようです。

私たちは通常神社に詣るとき、手で二拍手を致しますが、大社では四拍手となります。四すなわち死を意味するとの説もあるようです。天照大神は、出雲の国譲りを受けて宮を築き、天穂日命に奉仕させたことから今日まで継承され、現在は出雲国造(こくそう)八十三代目に至っており、大社の祭祀を司っている。現在の本殿は1744年の造営で国宝に指定されています。

決して人の踏み入れることのない聖なる山、八雲山を背景にして佇む大社は、自然に溶け込み静謐で重厚な趣の中で、自ずと頭を垂れたくなる懐の深さを感じます。それはあたかも、大自然の懐に抱かれ、太古のオゾンの霧に包まれたのごとくです。それは、長い歴史の中で人々から敬い、恐れられ、そして愛された信仰の幾層ものベールが重なって、音もない閑けさのはずが、心に様々な語りかけをしてくる気がいたします。

 

 懇談会の様子
       

          杉浦氏よりの報告                         杉山氏よりの報告

      

 天野氏より山陰地方で使用されている葬具の説明            二村氏より報告

        

                            全体の様子